島の散歩
波照間島歴史年表


<波照間島・八重山の古い時代>
3800年前年前
      土器の使用始まる(波照間島 下田原遺跡)

4世紀から12世紀
      波照間島 大泊浜貝塚(無土器時代)

  714 「日本書紀」に八重山の人が大和に行くと記される。

<波照間島・八重山の(琉球)グスク時代>
 1390 察度(さっと)王時代に、中山へ進貢
 12〜14世紀
      酋長―島主という政治的支配者は存在せず、
      平和な純然たる祭政の時代が続いていた。

 14世紀
      三山(北山・中山・南山)分立時代
      按司の世。このころ八重山は各地に豪族があらわれ争乱が続く。
      波照間島も群雄割拠時代。
 15〜16世紀
      下田原(しもたばる)城あり。

 1429 尚巴志が三山を統一

 1470 金丸が王位につき新しい琉球王朝になる。(第2尚氏)

 1480年ころ
      波照間島でオヤケアカハチ誕生。
      このころ波照間島には明宇底獅子嘉殿という群雄がいた。
      石垣の群雄、長田大主も波照間島出身である。

 1500 八重山でオヤケアカハチの乱勃発。
      八重山は琉球王国の支配下になる。
 1510 与那国も琉球王国の支配下になる。

 1591 豊臣秀吉が薩摩を通して、朝鮮出兵を求める。

 17世紀はじめ
      琉球王府の政策で波照間島から
      石垣島に数百人が移住させられた。

<波照間島・八重山の島津藩支配下時代>
 1609 島津摩藩が琉球に侵行。
      貢納布制度によりより重い税をかせられる。
 1637 人頭税が科せられる。

 1648 人頭税に苦しめられた、住人40人が、南波照間島、
       『パイパティロウマ』を目指し、
      一夜のうちに旅立ったという伝説がある。

 1771 明和の大津波、9000人の人が犠牲に
      波照間島では14人の人が亡くなった。
      この当時波照間の人口は1500人程度。(竹富島より多かった)

<波照間島・八重山の近代>
 1853 ペリー来航。
 1872 琉球王国が琉球藩となる。
 1879 琉球藩から沖縄県になる。
 1903 人頭税廃止。
 1912 県議会設置
 1919 衆議院議員選挙
 1920 八重山でも衆議院議員選挙の投票が始まる。
 1921 波照間島で燐鉱山が発見される。
 1933〜1943まで
      波照間島の戦前は燐鉱石の採掘でにぎわう。

<波照間島・八重山の戦争時代>
 1941 第二次世界大戦勃発。

 1944 山下虎男となのる人物(工作員)が波照間島に来島。
      マラリアの有病地帯西表島へ移動するよう威嚇し、命令した。
      全島民が西表島の南風見田地区へ5ヶ月間、疎開させられ、
      島の人口の3割にあたる477人がマラリアの犠牲になった。
 1945 6月23日沖縄終戦、8月15日敗戦。
      第2次大戦終結で米国軍政となる


<波照間島・八重山のアメリカ統治時代〜現代>
 1946 アメリカ軍政府は沖縄民政府を作り知事を任命
 1952 沖縄民政府は琉球政府となる。
 1958 Bドル発行
 1961 マラリア撲滅。
 1967 西表ヤマネコ発見
 1972 日本復帰。
 1981 山下虎男、3度目の来島。(山下は68年にも訪れている。)
      山下の来島の目的は定かではない。

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波照間島の今は、のどかで静かな島である。
その様相に似合わず、大変な歴史もあった。
群雄割拠時代には、波照間島から多くのヒーローがでており、
また、戦争時代にはマラリア事件という悲しい歴史もある。
いろんな歴史を知ることで、波照間島もっと理解したいと思う。